どうもシオンです
キングダムで主人公、
秦の若き将軍として名を上げ始めていた李信が、
楚遠征で大敗を喫したという史実は
戦国時代の軍事史において
最も大きな謎のひとつとされています。

この出来事は史記に記録が残っているものの、
具体的な戦術、損害、敗走の経緯といった
肝心の部分がほとんど書かれていません。
秦軍は基本的に
編制や戦果が詳細に記録されることが多いにもかかわらず、
李信軍の楚遠征だけは
不自然なほど短い記事で処理されています。
しかも
この遠征は秦王政が自ら命じた大規模作戦であり、
結果として
秦史上でも指折りの損害を出したと考えられています。
それにもかかわらず
敗因が明確に残されていないため、
研究者のあいだでも議論が絶えません。
キングダムでも
李信と楚との戦いは重要な局面として描かれていくと思いますが
史実の楚遠征はその描写以上に多くの不明点を抱えています。
今回のブログでは、
李信軍がなぜ楚に大敗したのかという歴史的な謎を
史料に基づいて整理しながら、
残された空白と矛盾点を追っていきます。
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李信軍が楚に敗れた原因はどこにあったのか
李信の楚遠征で最も大きな論点となるのが
秦軍がなぜこれほどの大敗を喫したのかという点である
史記 秦始皇本紀には
李信と蒙恬が率いた秦軍が
楚軍の反撃を受けて壊滅したと簡潔に記されているが
その敗因についてはほとんど説明されていない
まず指摘されるのは
秦王政が当初の戦略判断を誤った可能性である
本来は名将 王翦が楚遠征を進言し
六十万もの兵力が必要だと主張したが
王政はこれを「大げさすぎる」として退け
若い李信に大軍の指揮を任せた
しかし
楚は当時すでに広大な領土と兵力を維持しており
李信の率いた軍では
楚全土を相手取るには明らかに戦力が不足していた
さらに
楚軍は機動力の高い部隊を多く抱えており
地形にも通じていたため
秦軍の動きを把握したうえで
各個撃破する形で攻撃を加えた
と考えられている
楚の名将 項燕が指揮していた
という記述もあり
秦軍の進軍速度や配置の甘さを見抜き
意図的に弱点を突いた可能性が高い
また秦軍内部でも
李信と蒙恬の指揮体系が十分に統一されておらず
秦軍の持ち味である組織力が発揮されなかった
と指摘されている
楚遠征が短期間で崩れた背景には
兵力不足
地形の不利
楚軍の巧妙な戦術
秦の指揮統制の乱れなど
複数の要因が重なっていたと考えるのが自然である
しかし
これほど大規模な敗北であるにもかかわらず
詳細な戦闘記録が残されていない点は不自然で
秦にとって不都合な敗因が意図的に省かれた可能性
も否定できない
李信の敗北は
軍事的な失策以上に
秦王政の政治判断ミスを隠す必要があった
と一部で考えられている
その結果として史書では
事実が簡略化され
敗北の核心が曖昧なまま残されたのだろう
王翦が復帰すると戦局が一変した理由
李信軍が楚に敗れたあと
秦王政が再び任せたのが名将 王翦である
史記の記述によれば
王翦は楚遠征に必要な兵力として
六十万という異常な規模の軍を要求した
この数字は戦国時代の軍事動員としても最大級であり
王翦が楚の強さを深く理解していたことを示している
さらに
王翦は慎重を重んじる戦略家として知られ
充分な兵力を確保しない限り
決して大規模作戦を引き受けない将だった
王政は当初
この要求を大げさと考えたが
李信軍が壊滅した後
状況の深刻さを理解し
王翦の提案を受け入れた
王翦が指揮を執ると
秦軍の進軍速度は抑えられ
まず楚の周辺拠点を丁寧に攻略しながら
兵站を安定させる作戦
を徹底した

楚との決戦を急がず
確実に包囲網を狭めていく姿勢は
李信の速攻とは対照的である
また王翦は
楚の将 項燕の動きを慎重に分析し
奇襲を受けないよう
常に余力を残した布陣を維持した
その結果
秦軍は大規模な損害を出すことなく戦局を掌握し
楚の主力を追い詰めていった
王翦の作戦が成功した最大の理由は
地形と兵站を重視した戦略にあるとされる
楚の湿地帯では
機動力の高い楚軍が有利となるため
王翦はあえて楚軍の誘いに乗らず
戦う場所そのものを選んだ
これは戦略家としての王翦の特徴であり
李信との大きな違いが表れた部分である
王翦の作戦は
楚を正面から叩くのではなく
楚の国力そのものを削り落としていく包囲型戦略
だった
結果として楚は決定的な反撃を行えず
秦の統一事業において最大の障壁とされた楚が
ついに崩れた
この戦局の変化は
将の経験と戦略思想の違いが
いかに大きな影響を与えるかを示す典型例である
李信の敗北と王翦の勝利は
戦術の差以上に
史書に残る“判断の差”
として今も語られている
なぜ史書は李信の敗因を詳しく書かなかったのか
李信軍の楚遠征について最も不自然な点は
秦軍が壊滅的な損害を受けたにもかかわらず
史書の記述が極端に短いことである
史記では
李信と蒙恬が楚の項燕に敗れたと書かれるだけで
戦況
損害
敗走の経路
兵站の崩壊といった
戦争記録の根幹部分がほぼ省かれている
この欠落は偶然とは考えにくく
近年の研究でも
意図的に記録が削られた可能性
が指摘されている
まず考えられるのが
秦王政自身の政治的判断を守るために
敗因が書かれなかったという説である
楚遠征は王政が主導した作戦であり
本来の提案者である王翦ではなく
若い李信を指揮官に抜擢したのは王政だった
そのため遠征が失敗した場合
王政の判断ミスが露呈することになる
戦国時代の史書では
君主の失策が記録から薄められる事例が多く
秦でも同じ処置が行われた可能性が高い
また
李信と蒙恬の部隊運用に齟齬があったとすれば
秦軍内部の混乱を明記することになり
秦王朝の統治能力に疑念を生む恐れがあった
これも記録が省略される理由になり得る
さらにもう一つの説として
楚側の勝利が秦にとって都合が悪かった
という見解もある
楚は秦の統一にとって最大の障害であり
その楚が秦軍に対し圧倒的勝利を収めた事実は
政治的に利用されたくない情報だった可能性が高い
秦が統一した後
史書の編纂は統一王朝側の視点で行われるため
敗北の詳細が省かれても不思議ではない
結果として
秦軍がなぜ楚に敗れたのかという核心部分が曖昧なまま残り
李信の遠征は
戦国最大の“空白の戦史”
として扱われている
この沈黙そのものが
秦王政の政治状況
秦軍内部の事情
楚軍の強さなど
複数の要因が絡み合った結果であると考えられる
終章 李信の楚遠征は“秦統一前夜の最大の謎”である
李信の楚遠征は
戦国末期の軍事史の中でも
最も説明が難しい出来事のひとつである
秦軍は圧倒的な勢いで
六国を追い詰めていたにもかかわらず
楚遠征だけは大敗に終わり
その詳細が史書から消えている
敗因が書かれないという事実そのものが
この事件の異常性を浮かび上がらせている
李信の判断
秦軍の編制
楚軍の戦術
王政の政治判断
いずれも明確には語られず
史書には“結果だけが残る”という不可解な形
になっている
その一方で
李信の大敗があったからこそ
王翦の慎重な戦略が採用され
楚を滅ぼす決定的な戦いへとつながった
つまりこの敗北は
秦の統一にとって遠回りではあったが
統一戦争の流れを決定づけた転換点
であったと見ることができる
史書が沈黙した理由には
政治的配慮
軍事上の失策
記録編纂上の都合などが考えられるが
どれも完全な説明には至らない
戦場の全容が語られなかったことで
李信の楚遠征は
今も歴史の空白として残り続けている
この沈黙は
敗北の詳細が消されたのではなく
消さざるを得ない事情があった
ことを示唆している
戦国時代の軍事記録は勝者によって形作られるが
李信の楚遠征はその典型例であり
語られた史実と語られなかった史実の境界に位置している
秦統一の影には
こうした“削られた戦史”が静かに横たわっており
李信の敗北はその象徴的な出来事である
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参考資料
史記 秦始皇本紀
史記 李将軍列伝
史記 楚世家
戦国史研究会論文集 楚遠征の再検討
中央研究院 先秦史史料データベース
中国古代軍事戦略研究 李信と王翦の比較研究














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